(初出 月刊マーチャンダイジング)
商人の「利益」の王当性はどこにあるのか
曰く
或商人間日、売買は常に我身の所作としながら、商人の道にかなふ所の意味何とも心得がたし。如何なる所を主として、売買渡世を致し然るべく候や。
では、売買(取引)は我々商人の仕事ではあるけれど、それが商人の道にかなっているという道理はまだ納得がいかない。売買上の利益がどうして「欲心」ではなく「道理」なのか。
答ふ
商人の其始を云ば古は、其の余り あるものを以てその不足ものに易えて、互いに通用するを以て本とするとかや。商人は勘定委しくして、今日の渡世を致す者なれば、一銭を軽しと云うべきに非ず。是を重ねて富をなすは商人の道なり。富の主は天下の人々なり。主の心も我が心と同き中へに我一銭を惜む心を推て、売物に念を入れ、少しも粗相にせずして売渡さば、買人の心も初めは金銀惜しと思へども、代物の能きを以て、その惜む心自ずから止むべし。惜む心を止め善に化するの外あらんや。
且、天下の財宝を通用して、万民の心をやすむるなれば、天地四時流行し、万物育はるると同く相合ん。
如此して富山の如くに至るとも、欲心とはいふべからず。欲心なくして一銭の費を惜しみ、青砥左衛門が五拾銭を散して、十銭を天下の為に惜まれし心を味ふべし。如此ならば、天下公の倹約にもかなひ、天命に合ふて福を得るべし。福を経て万民の心を安んずるなれば、天下の百姓といふものにて、常につつ天下太平を祈るに同じ。且御法を守リ我身を敬むべし。商人といふとも聖人の道を不知は、同金銀を設けながら不義の金銀を設け、子孫の絶ゆる理に至るべし。実に子孫を愛せば、道を学びて栄中ることを致すべし。
商人のおこりは、ある人の余っているものとある人の不足しているものを互いに補い合うところからはじまったそうです。涸人は算用(勘定)に詳しく、その売買においては一銭たりとも軽んじたりしません。一銭を積み重ねて富を築くのはあるべき廂人の道です。商人の富の主は世間のお客様です。お客様も商人と同じく、買物をする際には、一銭でも惜しむものです。だから滴人は商品を丹念に扱い、少しも粗相があってはならないのです。そうした商品を買ったお客様は、最初は一銭が惜しいと思っていても、満足に変わるのです。商人はこうした世間の売買とお金を大切に扱い、生産者とお客様の取引上の「安心」を生み出すのが使命です。これは自然の摂理にかなっていることです。こうした結米の利益であれば、どうしてその利益が「欲心」から出たものと言えましょうか。青砥左衛門の逸話をご存じですか。かれは夜、川に蕗ちた十銭のお金を探すために五十銭の松明を買って探し出したそうです。これは川に沼ちた十銭は見つからなければ世間から十銭という財が消えてなくなる、五十銭は世間に流通するのだからすこしももったいなくはない。
商人は、限られた世間のお金をなくさないよう努めることが天命です。その仕事でもって世の人たちの幸福を実現するのなら、これは生活の粗を生み出す農民と等しいと言わねばなりません。天から与えられた仕事を成すためには、法を守り、身を慎むことが大切です。涸人の道を学ばず、通常の売買利益ではない不義の利益を得ることに身をやつすのであれば、いずれその家は亡びるでしょう。末代までの繁栄を願うの
なら商人の道を知ることです。
解説
商人の富の主人は「お客様」であることを明確に提示した有名な一節。ここでは、商人の役割として2つの根本原理を挙げている。ひとつはお客のお金を節約し、扱う商品に命をかけることで、お客の満足をもたらすこと。もうひとつは、社会に流通するお金を大切に扱うということである。生産者と顧客の間に立ち「安心」をもたらすこと、そして一銭の利益を積み上げ、その結果富めるのであればそれは「道理」にかなうという主張にも注目したい。「石門心学」はストイックな道徳論と椰楡されることもあるが、正直な利益を蓄積することによる「大富」を認めたことで商人の支持を得たのである。
曰く
然らば商人の心得は如何致して善からんや
それでは、「商人の心得」というものはどのように磨かれていくものなのか。
答ふ
最前に云る如くに、一事に因て万事を知るを第一とす。一を挙げて云はば、武士たる者、君のために命を惜まば士とは云はれまじ。商人も是を知らば我道は明かなり。我身を養はるる亮り先を粗末にせずして真実にすれば、十が八つは、亮先の心に合者なり。亮先の心に合やうに商売に情を入勤なば、渡世に何ぞ案ずることの有べき。
前にも述べましたが、根本的なー事の心得をもって万事の心得を知るのが一番です。武士は主君のために命を惜しまないように。商人もまた自身を養ってくれる天下の人々をおろそかにせず、至誠を尽くせば、8割がたのお客様の満足を得ることができましょう。お客様の滴足を得るように商売すれば、商売が続けられないということがあるでしょうか。
其第一に倹約を守り、是まで一貫目の入用を七百目にて賄、是迄一貫目有りし利を九百目あるやうにすべし。亮高
拾貫目の内にて利銀百目減少し、九百目取んと思へば、売物が高直なりと尤らるる気遣なし。無中へに心易し。
且前に云尺違の二重の利を取らず、染物屋の染違に無理せず、倒たる人とうなづき合て、礼銀を受け、負方中間の取口を盗まず、算用極めの外に無理をせず、奢りを止め、道具好をせず、遊興を止め普請好をせず。
斯のごとき類ことごとく慎止る時は、一貫目設くる所へ九百目の利を得ても、家は心易く持るる物也。
扱利を百目少くとれば、亮買の上に不義は有増なき者なり。
そのためには、まずお客様のお金を倹約するということが大切です。これまで一貫匁(1000匁)かかった費用を700匁で済ませ、こ
れまで一貰匁で得られた利益を900匁で得られるようにすべきです。言い換えれば、売上が10貫匁のうち、これまで一貫匁得られていた利益を100匁減少して900匁得ればよいようにすれば、商品が売価が高いとお客様に咎められることはありません。
心配がなくなれば心は平安に保てます。そのうえ、前に述べたような二重の利益を得たり、染物屋の粗相など取引先に無理を言わないことです。また倒産した人に対してはあくまでも了解のうえでの礼金を受けて貸したお金につけこんで搾取するような、いわば盗みをせず、自らの商売上の投用の計符を綿密にして無理のないようにすることが大切です。
そうであれば、贅沢をすることもなくなり、好き鎌いも言わず、遊興もやめ家を立派にしない。これらをすべて慎むようであれば一貫匁儲けるところで900匁の利益にとどまっても家業は安心して維持できるものです。
たとへば一升の水に油一滴入る時は、其一升の水一面に油の如くに見中。此を以て此水用にたたず亮買の利も如是。
百目の不義の金が、九百目の金を皆不義の金にするなり。百目の不義の金を設け増、九百目の金を不義の金となすは、油一滴によリて、一升の水を捨る如くに、子孫の亡び往ことを知らさる者多し。二重の利や倒者の礼銀やけらひのしかけなどの無理ことごとく合わせ聚てみたりともそれにて世帯が持たるる者には非ず。此理は万事にわたるべし。然れども欲心勝て、百目の所が離れ難き中へに、不義の金を設け可愛子孫
の絶へ亡ることを知らざるは哀きことにあらずや。
利益を一割少なめにすれば、取引の上での問題はほとんどないでしょう。たとえば一升の水に油を一滴入れてみると、その一升の水は一面が油のように見えるものです。そのためこの水は役に立ちません。売買の利益も同じで、たった100匁でもそれが不正の利益であれば、残りの利益も不正に得た利益であると断じられてしまうのです。すなわち100匁の不正利益を増大することは油一滴によって水を捨ててしまうことと同じです。これは子孫が滅びてしまうことを知らぬ者の行為です。二重の利益、倒産した者からの礼金、支払いのごまかし、無理な利益の備蓄は商売を危うくするものです。これらの道理は万事について言えます。それでも営利欲が強く、100匁に未練があるようであれば、あなたの愛すべき子孫が滅びてしまうでしょう。なんと悲しいことではありませんか。
解説
お客の使うお金を倹約するためには、自分の利益(経費)を削ることで達成する必要があることを説いていることに注目したい。しかしそのためには不正や取引先への無理強いで実現するのではなく、自らの費用の計算能力を高めることで実現せよという主旨は、そのまま現代の小売業経営に通じることである。「ディスカウント」がデフレの要因のように言う御用学者、政治家が現代でも跋扈しているが、本物の商人がなぜ価格を安く提供する努力を行うのか。それはお客の使うお金を倹約したいからである。倹約されたお金はほかの消費にまわり、貯蓄、投資を生む。自己努力によってもたらされた倹約は天下にお金をまわす。つまりデフレ批判を行うものは経済の道理を知らぬ無知蒙昧の輩と言わねばならない。この自己努力の中に、「従業員満足」を加えたのが商業界を創始した倉本長治の「店は客のためにある、店員ともに栄える」である。
前に云如くに兎角今日の上は何事も清潔の鏡には士を法とすべし。「孟子日く恒産の無くして恒心ある者は惟士の能くすることとなす」と昔鎌倉最明寺殿、天下の政を皆相模守殿へ譲リ玉ひ、諸国を巡り玉ふは天下の邪正を正んためなリ。これ下の訴、上へ通ぜざることを欺き玉ふゆへなリ。
上仁なれば下、義ならざることなし。此こに青砥左衛門尉誠賢鎌倉に於いて訴を分る時、相模守殿家人と公文と相論有しが相模守殿家人の無理なれども、評定の面々時の権威に恐れて、理非を分ざる所に、青砥是を分明に分る。此時公文大に悦び、其夜半に烏目三百貫文青砥が屋敷へ後の山より落し入れぬ。青砥を見て喜びずして、残らず反し遣して言ふ様は、相模守殿よリこそ褒美をば受べき所なリ。公事を分明に分るは相模守殿を思ひたてまつる中へなリ。天下の理非の正しきは、相模守殿喜び玉ふべき所なりぞと言ける。
かくの如き者は、士の中に入べし。オ知は青砥に劣る人も有るべし。不義の物を受ざるほどの事、音砥に劣らば士とは云われまじ。ここを以て見れば、世の人の鏡と成るべき者は士なり。
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世界は廣きことなれば、鼻を塞で不義の物を受る士も有べし、若有らば士に似て刀を指、盗人にて有ん。事を頼む者より賂をとるは壁を穿盗人に同じ。
青砥が公事を分明に分ることは、相模守殿を思いたてまつると云うなれば、我身を修め役目を正しく勉め邪なきは君への忠臣なり。今治世に何ぞ不忠の士あらんや。商人も二重の利、密密の金を取るは先祖への不孝不忠なりとし、心は士にも劣るまじと思うべし。商人の道と云ども何ぞ士農工の道に替ること有らんや。孟子も道は一なりとの玉ふ。士農工商ともに天の一物なリ。天に二つの道あらんや。
奢らず、身を慎む範とすべきは古の武士がよいでしょう。孟子にある「財産はなくとも心がまっすぐな者は士に値する」という故事がありますが、鎌倉幕府4代目執権北条時頼が時宗に5代目の座を譲り全国を旅したのは、権力に仁徳が衰え、世間に不義がはびこっていたことを嘆
いたからでした。故事に名高い青砥左衛門は、訴訟で執権の家人とある御家人一族が争ったとき、評定が時の権力を恐れて、理非による裁きが機能しませんでした。そのとき青砥のみが理非をもって裁いたと言います。このとき争いに勝った御家人は謝礼として青砥の屋敷に300貫文もの金銀を送りましたが、青砥は受け取りませんでした。
その理由は、「理非をもって争いを裁くのは、執権時宗殿のことを考えて行ったまでのこと。公明正大な裁きがあればこそ、さすがは執権の時世であると世の人々が考えるはずだから、お喜びになるのは執権であり、お礼をいただくのなら時宗殿よりいただきたい」とのことでした。このような人物は武士の中で評価されるべきものです。才知においては青砥に勝る者は大勢いるでしょうが、世間の人々は武士の中にこのような至誠の人間を見出し模範とするものです。世の中は広いもので、武士の中にも不義の利を貪る者がいるでしょう。もしいるとすればそれは似て非なる者です。本物の武士ではありません。袖の下を要求する者は盗人と同じです。青砥の故事は武士もまた天命を知り学問を修めない者は不忠者になるということを教えてくれます。商人もまた不正の利益は先祖への不義不忠に通じます。商人の道は特別な道ではありません。士農工と同じです。これは天の理がふたつはないのと同じこ
とです。
解説
梅岩は正当な努力によって得られる利益を肯定する一方で、不正によって得られる「不義の利」を固く戒めた。不正の利益は、それがたった1%のものであっても、世間は一度それを知ればすべての利益が「不正」で得たものではないかと勘繰る。天下のお金を預かる商人を見る目はこれほどまでに厳しいもの。ひいては商人の信頼や信用というものはたったの1%で崩れ去るというということを伝えている。
またここでは為政者である武士をあえて持ち上げる形で理想を説くことにも注目したい。武士の中には利益を肯定する商人を快く思わない者が大勢いた。その空気の中で武士の忠君と商人の世間の人々に対する忠は同義であるという結論の導き方は見事というほかはない。商人の範としての「本物の武士」を掲げることで時の支配層をも暗に戒めたのである。
