(初出 月刊マーチャンダイジング)
商人が得てはならない「不正の利益葦」とはなにか
曰く
然らば商人の売買にて、利を得ることは有るべきことなり。其外に曲げて非なること候や。
商人が利益を得ることを正当性はよくわかった。では不正に得る利益とはどんなものか。
答ふ
今日世間のありさまに、曲て非なること多しここを以て教へあるなり。実の商人は敬み為ざることたと有リ。臀えを以て告ん。我幼年の時分に聞しこと有り。昔或国に中頃より水入になり、農作ならぬ田地あリ。其昔水も入らざりし時、年貢をかけられし例により、今も少々宛年貢をかけられしに、其田地に果物を植、稲作より増によこものなり揚ければ、其果物に先君の時より、又運上をかけらるるとかや。君これを難儀に思召、子の新法を止め、民の害るることを救はんと志し玉へども、親殿の時より始られしことなれば、子の身として改め変ことを嘆き玉ひ自ら止べきことを思召。或時臣を召して日見れば城下に二階作りの家を立る者あり。二階作りの家はことごとく運上を取るべしと仰付られ候こと、昔より其例なきことに御座候。御赦下され候やうにと申上らるれば、君聞召昔より例なきことかや。我は其例を以て言付ることなり。かの水入の田地は下にては年貢を取り、果物にても運上を取るなれば、二階作りの運上に同じ。例なきことにあらずとの玉ふ。それより果物に運上をとることを止、田地の年貢ばかリに成けるとかや。御仁愛及ぷ所、実に民を子の如くに思召政、世にありがたきことかなと申しき。
今日の世間では残念ながら不正が横行しているのも現実です。本物の商人は真実の商いをするものです。たとえば、私が子供のころ、水
を入れられない田地で稲作ができず、それでも年貢がいくらかかかっていて、その田地で果物をつくったころ、稲作の年貢に加えて果物にま
で税金がかかるようになってしまいました。殿様はこれを止めさせようとしましたが、臣下は先代からの恨例であるとの理由でやめようとしません。そこで殿様は、城下から見える二階建ての家の者はことごとく二重の税金をとるようにと命令しました。臣下はさすがにそれはできないと思ったところ、殿様は、「先の田地の二重の年貢は二階建ての家から二重に税金をとるのと同じ」として、田地の二重年貢を止めさせました。この仁政に民は有難いことだと喜んだそうです。
◆
商人も加様なることを法とすべきことなり。二重の利を取り、甘き毒を食らひ自死するようなること多かるべし。一二を挙げて云はばここに絹一疋帯一筋にても、寸尺ーニ寸も短き物あらんに、織屋のほうにては短きを言いたて直段を引べし。然れども一寸二寸のことなれば疵にもならず、絹は一疋帯は一筋にて、一疋一筋の札を付けて売るべきが、尺引に利を取り、又尺を足る者と同く利を取るなれば、是二重の利にて天下御法度の二枡を遣に似たる者なり。
又染物杯は染違ひ有れば、少しのことを大きに云いたて直引し、職人を傷め、誂たる人よりは染代を請取、職人方へは渡さざることも有り。これ又二重の利に越へたる悪事なリ。総て箇様の頬多かるべし。又身上不調につき、買懸り借金の方へ、三分五分の割銀を以て詫言致し済ますこともありとかや。其負方の中に売高多きもの、又猿賢き者は詫び人より礼銀を容密と請取同<損銀有る体に見せかけて、我は損せざる者ありときく。箇様の紛はしき盗みをなす者を非と云。
商人もこのように自らを律する法を持たねばなりません。とくに二重の利は、甘い毒を食べるようなものでいずれ自滅します。例を挙げましょう。ここに絹一疋帯一筋あったとしましょう。しかし長さが一、二寸短いものがあり、仕入れ先には、短いからまけろと言い、店頭では一、二寸短いが、傷もないので、正寸の値段で売り、正寸と同じ利益を得る。これは二重の利益というべきもので、御法度の「二枡」(仕入れるときには大きな枡を使い、売る時には小さな枡を使うこと)と同じ行為です。
また、染物も、すこしの染違いを大きく言い立て、値引きを強要し、職人を傷めつけ、一方で誂えた人に染代を請求し、職人にそのお金を渡さないことも二重の利を貪ることです。また倒産しそうなとき、資金を借りた先に3~5割の礼銀を返し、あとは口頭の詫び言で済ます者、その貸し先で取引の多額の者、悪賢い者は柑手先から内密に礼金を受け取っておきながら損失が大きいように見せかけ、実は損失が少ない者もあるようです。これらは皆「盗み」と同じと言うべきです。
解説
「伊勢エビ」ではないものを安く仕入れ、「伊勢エビ」と札をつけて売る。これこそまさに梅岩が戒めた「二重の利益」である。これによってほかの真っ正直な商人の信頼をも損なわせる…三重の罪である。このような不正の横行は江戸時代も現代も変わりない。だからこそ、商人は「道」を学び、「こころ」を磨き続けなければならないのである。これは法令順守やコンブライアンスのガイドラインを整備して実現できることではない、一人ひとりの絶えざる研鑽によってのみ達成できるのではないか。
