商人は常に社会的存在である
利益を追求する一方で社会的還元を忘れてはならない
ユニクロ柳井氏の100億円の資金援助
2020年6月24日、全世界を襲った未曽有の新型コロナウィルス感染拡大下、日本では緊急事態宣言が解除され、続々と店舗などの営業が再開、人々の往来もはじまり、世間の緊張が少し緩みはじめていたころ、京都大学百周年時計台記念館ホールで人々の注目を集めた記者会見が行われた。
登壇したのは、ユニクロ、ジーユーを展開するファーストリテイリング社長兼会長の柳井正氏、両脇には2人のノーベル賞学者、iPS細胞研究の山中伸弥教授、がん免疫研究の本庶佑(ほんじょたすく)特別教授が揃った。この日、日本が誇る2つの頭脳の研究支援として柳井氏個人より段階的に総額100億円の寄付が発表された。
コロナ禍で苦しむ世界情勢にあって、人類を救う基礎研究分野への高額な寄付金に、メディアは、米国のビリオネアを引き合いに日本における寄付金文化を活性化させる快挙と銘打った記事、あるいは人類、国家の安寧の基となる基礎研究予算が木っ端役人の意向で変更される危険性をはらんだ脆弱な社会システムに対する批判といった類の記事が散見されたが、ひとつ大きな視点が抜けていた。
柳井氏が「本商人」であるという捉え方である。
かつて商業界創始者倉本長治は、「常に商人は社会的存在であり、利益を追求する一方で社会的還元を忘れてはならない」と提唱した。
倉本長治は、石門心学の祖石田梅岩がその事績を明らかにした江戸時代の「本商人」の生き方になぞらえて、商人はその知恵と工夫で「大富」を得ることがあるが「私」のみにつかうのではなく「公」につかう商人こそが「本商人」=「本物の商人」であるとし、全国の商店経営者に説き続けた。
倉本を生涯の師と仰いだ日本リテイリングセンターの渥美俊一も生前最後のインタビューで、50年以上におよんだコンサルタント人生の中でもっとも残念だったこととして、大富を「私」にのみにつかう商人の存在を挙げた。
古今東西、商業の世界におけるカリスマと呼ばれた経営者たちは、お金や会社ではなく「人」を遺すことを最善とし、大学設立や若い世代を育成する機関へ惜しみなく私財を投じた。
商人における社会的還元の象徴的な実践例として柳井氏を挙げたが、昨今日本を襲う自然災害に対しての支援金などは、日本の小売業経営者たちは格別の関心を払っている。しかも企業としてはいわゆる日本赤十字やユニセフといった公的といわれる機関へ送るが、経営者の私的な支援金は一律ではなく本当に困っている現場の人々に直接支援が届く形(地元のNPOなど)で提供している。コスモス薬品の宇野正晃会長などはその代表的人物だ。
商人であればこそ、本当に生きたお金の遣い方を知っているのである。
「商人の自覚」の範を示し続けたイオン岡田卓也氏
このような倉本長治が提唱してきた「商人の自覚」を同輩あるいは後進たちに示してきた商人としてもっとも象徴的な人物を挙げたい。
戦後日本にチェーンストア志向企業と巨大流通グループを誕生させた数多経営者のうち、倉本長治の教え子としても知られたイオン創業者岡田卓也氏である。
岡田卓也氏は、「公」と「私」の峻別を意図的に実践してきた「本商人」だ。創業者利益を「私」にせず、ほとんどの財産を教育や環境財団という「公」に注いだ。その活動は日本国内にとどまらず世界におよぶ。これは実姉でイオンピープルの精神的バックボーンを形成した小島千鶴子氏の影響も大であろう。
日本の近代商業史を見渡したとき、このような例は少ない。
これは、もうひとつ彼が小売業の社会的地位の向上にその人生の大半を尽くしてきたことと軌を一にする。小売業の社会的地位を高めるためには小売業に社会的な存在価値がなくてはならない。岡田氏は、「士農工商はいまだ終わらず」としてお上や既得権益を牛耳る周辺産業による理不尽な規制や商慣習に常に真っ向から対峙して主張すべきことは主張してきた。これは四日市時代(イオンの元となった岡田屋発祥の地)から変わることのない生涯を懸けた闘いであった。
倉本長治は、四日市時代から小島千鶴子、岡田卓也姉弟経営者を見続け、商業界の原点ともいうべき「商業界ゼミナール」を支えるエルダー※1たちとのエピソードを集めた交遊録※2の中で、若き二人の活躍を綴っている。後年の岡田卓也氏の著作や、関連44 2020.9 月刊マーチャンダイジング[特別寄稿]流通ジャーナリスト
流川 通商人は常に社会的存在である利益を追求する一方で社会的還元を忘れてはならない(不許複製印刷配布) 45図書、企業資料で語られる岡田卓也氏や小島千鶴子氏のエピソードの数々のいくつかは、倉本長治が全国を飛び回る中で、記録した古いノートがもととなっている。
これから挙げる2つの代表的エピソードは倉本長治が、岡田屋の先々代から仕えた大番頭の口述を筆記したものである。
※1エルダー/商業界同友の中でも後進に対して指導する立場にある先輩経営者。地域を代表する経営者らが多い。エルダーをサポートする役をチューターと称した。
※2交遊録/『此の人と店 わが半生の交遊録「岡田卓也とジャスコ」』倉本長治 商業界1975年刊
1963年(昭和38年)は岡田屋がオカダヤとして大卒者の定期採用を本格スタートさせた記念すべき年であった。このときの入社式に来賓として招かれ若者たちを激励したのが商業界の倉本長治(演壇の人物)であった
「店の土蔵に滑車をつけておけ」
これは岡田卓也氏の祖父の言葉という「大黒柱に車をつけよ」とも表現される。常にその地域で一番地価が高い場所(人が集まる便利な場所)へ店を移すだけの心と金の用意を怠るなという意味だ。
昭和24年、オカダヤは四日市のこれまでの店舗と土地を、区画整理によってできた新しい道路(諏訪新道)に面した土地の借地権と交換してしまった。実在の不動産を借りる権利と交換するのはなんと大馬鹿かと当時の周囲の商業者は彼らを嗤ったが、果たしてオカダヤはここに新しい大型店舗をつくり、業績は急上昇したという。小売業は一に立地、二に立地と言われるが、後年イオングループは、郊外の大型ショッピングセンターという独自の路線を確立、一方で「まいばすけっと」という業態が都市部のサブストリートに進出したが、これも人々の流れに応じた「立地」を最重視とする同社のDNAから発したものだろう。
それから約10年後、昭和33年、今度は四日市の駅前に大型店舗をつくる構想が持ち上がった。倉本長治は、「駅前の店舗は考えものではないか。衣料は比較的単価が高いものだから遠くからでも買いに来る性質のものゆえ本店以外に市内に同じような店を別に持つことはそれほどの意義はないのではないのか」と問うと、岡田卓也氏は物静かな微笑を浮かべて、新しい企画を持って取り組んでいる旨を告げた。
生活必需品を集めた大型店のチェーン化構想がすでに着々と進んでいたのである。時同じくして、商業界ゼミナールからは、長崎屋、ニチイ、ユニーなど続々と衣料品から総合生活品種を揃えた大型チェーン構想に乗り出そうとしていた時期であった。
さらに約10年の歳月を経てこの四日市の店は姫路フタギ、大阪シロと合併しジャスコとなる。ジャスコの社史にはこの合併劇の舞台は商業界ゼミナールにはなっていないが、そこに至るまでの道程には、常にゼミナールでの交流と談論風発がもとになっていたであろう。
「下げに儲けよ」
「商人は値上がりで儲けるのは下策、安く買ったものをお客に高く売ることになるからだ。本当の商人は値下がりのときにこそ大いにこれまでより安く売って儲けるのが上策」─これも岡田卓也氏の祖父の言葉という。
大正九年の生地相場暴落時、祖1963年(昭和38年)は岡田屋がオカダヤとして大卒者の定期採用を本格スタートさせた記念すべき年であった。このときの入社式に来賓として招かれ若者たちを激励したのが商業界の倉本長治(演壇の人物)であった
父は、大番頭や若旦那では欲が先にあるから思い切った値段は付けられないだろうとして不慣れな小僧に値付けをさせた。相場が下がっている中でさらに安売りをするのだから損害がますます大きくなってしまうことを恐れたが蓋をあけてみると、得意先に飛ぶように売れて儲かったという。
思いがけず相場によって安く仕入れていたものの価値が上がって高く売れても、お客はそれがなくて困っていてしぶしぶお金を払っているのであり、それを当然だとおもってしまうといつのまにか自分たちの「利」が先にきて、お客の「利」を疎かにしてしまうことに対する戒めとも言えよう。
世界的なオイルショックが発生し、波及的に食品が値上がりした際、1個100円以下だったカップヌードルが150円に値上げ、これ以下で売る店に対しては販売を停止するとメーカーは宣言した。このときもジャスコは「不当な値上げである。消費者利益のために断然戦う」として全国のチェーン店に先駆けて便乗値上げ排撃の挙に出た。ほどなくして自社製のカップ麺を85円で販売して大いに売ったという。
ときに時の権力や論勢は、デフレを悪という。商品単価が下がれば、差益は少なくなり、経費も賄えず、人々の給料も上がらない、だから安売りは悪であると。しかし一方で、皆が困っているときに知恵と工夫をこらして自らの経費を削り、お客に買いやすい値段で商品を提供するのは、商人の大切な社会的役割のひとつだ。
皆が困っているときに買いやすい価格で商品を提供することは、お客の家計を助ける。節約されたお金は子供の教育費用や老後の貯蓄などにまわすことができる。
商人はお金が天下(世間)にまわるよう、その算用の術をもってお客さま、従業員、取引先の「三方よし」を成立させることを使命とする。その結果得られた「大富」をさらに社会に還元することによって、より豊かで平和な社会を創り出す。
倉本長治は、著書の中で、当時の大番頭から聞いた先々代の先見性(奉公人の職能開発と待遇制度の一致、正札販売など)を明らかにしていくことで、 岡田卓也氏の俊才ぶりを生き生きと描き出した。フィールドワークに徹し歴史的な知見を踏まえ、その文脈の中で革新性と社会的意義を浮かび上がらせるスタイルは、「商業界」のスタンダードとなり各雑誌、書籍、セミナーに受け継がれた。
返す返すもこの商業における情報発信のベースが失われしまったのは惜しい。そしてそのDNAをいまだジャーナルの世界で引き継ぎ、影響を与え続けているのは月刊MDの日野眞克主幹などごくわずかしか残っていないのも寂しい。
京都大学および同大学iPS細胞研究財団への寄付に関する記者会見場にて。
左から、岩井一宏京大医学研究科長、本庶佑氏、柳井正氏、山中伸弥氏、湊長博
プロボスト理事・副学長(京都大学ホームページより)
コロナ禍において商人のあり方が問われる
冒頭に挙げた柳井正氏の公的なプロフィールには決まって大学卒業後ジャスコに入社と明記している。働いた期間は1年足らずにもかかわらず、この一文は消えることはない。これは現代産業にあって商人の地位向上に生涯を懸け、「本商人」へと覚醒させた岡田卓也氏への限りないリスペクトが込められているといったらいい過ぎだろうか。
岡田卓也氏は、「小売業は平和産業」であると常々いい続けてきた。平和だからこそ人々は安心して買物をすることができる、一人でも夫婦でも家族揃ってでも買物が普通にできるのが平和の証拠だと。
いま世界を襲ったコロナ禍の状況を見るにつけ、人々は安心して普通の買物ができない状況に陥ってしまったことを実感する。
その中にあって知恵と工夫をこらし、少しでもお客にとって快適な買物環境をつくり、お客と従業員の安心安全を図る個々の小売業の努力は、倉本長治が目指した社会的存在としての「商人」のあり方そのものと言えるのではないだろうか。

